炎天のもと、しらこばと水上公園(埼玉県越谷市)に向かった。プールの入り口に向かう人たちが、急ぎ足で、公園東側を南北に貫く直線道路を渡っていくのが見えた。
この道が、終戦間際に造られた陸軍飛行場の滑走路の跡であることを知る人は、どれだけいるだろう。
同市と旧岩槻市(さいたま市岩槻区)の市史や郷土史家らの調査によると、公園付近から国道463号バイパス手前までの南北1・5キロが滑走路で、幅員は60メートルあったという。
今は、沿道に板金や自動車整備の工場や住宅が立ち並び、道幅は6~10メートルほどになっている。
このあたりは、戦時中は荻島村(現越谷市)と新和(にいわ)村(現さいたま市岩槻区)にまたがり、シラコバトが飛び交うのどかな田園地帯だった。それが、終戦前年の1944年に一変した。
「本土決戦」に備え突貫工事
本土への空襲が本格的に始まった時期。飛行場や軍需工場が地方に分散され、「本土決戦」に向けた防空力増強のため、飛行場の建設が急きょ決まった。
住民は、工事を手伝うよう求められた。国策に協力する「翼賛壮年団」の人たちから、こう檄(げき)を飛ばされたという。
「事態ハ極メテ重大デアル、サイパンノ全将兵戦死、又(また)大宮島(グアム)ニ敵上陸、誠ニ重大事中ノ重大事態ナリ、一旦緩急アラバ義勇公ニ奉ズベシノ詔命(しょくめい)ヲ畏(かしこ)ミテ、今ゾ我等(われら)神州男子ノ本面目ヲ発揮シ、敢闘ニ死スベキ秋(とき)ダ」
付近の農家13軒が強制的に立ち退かされ、44年7月に工事が始まった。完成予定は同年9月20日。2カ月余で終える予定だった。
しかし、ぬかるみの多い湿地…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル